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沿革史

掲載日:2017年5月15日更新

第1章 戦後復興の村づくりにかけた情熱(1947年から1956年)

創設当時の教師と生徒たちの写真

あの、ものすごい情熱はどこから生まれてくるのだろうと、いま思う。そして、あれは戦後復興の村のシンボル作りにかけた村民一体となった情熱であったのだといま考える。

戦争に破れて昨日までの価値観が転倒し、東京は度重なる空襲で廃墟と化し、衣食住を失った人々が街に溢れていた。日本中がこれからの進路を見失い、無力感に陥っていた。そういう中でいち早く立ち直った美笹村の人々が、学制改革(6・3・3・4制)で我が村にもできることとなった中学校に夢を託し、村民の意思で「独立校舎でいこう」ということになり美笹中づくりに希望を託した。

教師も生徒も、村民の情熱を肌で感じ取った。みんな一生懸命であった。過酷な条件の中で、過酷な課題を課し、時にはビンタもとんだ学校であった。活気に満ちていた。毎日毎日が「新しいものを創り出す」学校生活であった。その一つ一つを村民が応援し、その成果を村民が共に喜んでくれた。まさにコミュニティ・スクール(地域の学校)づくりそのものであった。

妹の子守りをしながら登校してきた生徒がいた。(妹をすぐ横に座らせて授業を受けていた)畑から野良着のまま登校してきた生徒がいた。農繁休業で生徒たちも労働力として家の仕事に貢献した。そういう中で、国会、県会、村会を、また裁判所、新聞社等を見学し、新生日本のへの夢を育てた。

人文字(空撮)の写真

小さな村の生徒が、やがて県大会で優賞(走り高跳びでは県新記録を樹立)し、県理科展では金賞となり、県弁論大会で準優勝になるなどという快挙が続出するようになった。

村と学校が一丸となり、苦楽を共にし、血の出るような厳しい財政の中で、わが村の学校づくりに取組んだ時期、これが、この10年間であったといえる。

第2章 合併・分離・火災・そして再建(1957年から1966年)

理科の研究のようす

この10年は、先生や父兄など学校関係者によって積み重ねられた開校当初の情熱・努力が一斉に開花し、数々の成果を生み出した時代である。男子団体徒手体操9連覇や日本学生科学賞金賞を獲得した「ハチの研究」に代表される自然科学部の活動などが一例である。

一方で、美笹村、戸田町の合併に際して、浦和市への分離合併を強く希望した地区が、生徒たちを巻き込んで同盟休校に突入したり、また、長く親しまれてきた木造旧校舎を焼失、美谷本小学校旧校舎を1年におよぶ仮校舎生活を強いられるなど試練の時代であった。そして、1961年(昭和36年)プール完成、1963年(昭和38年)新校舎竣工、1965年(昭和40年)には体育館が整備されるなど、現在までに及ぶ施設の原型が形づくられた整備充実の時代でもあった。

また、忘れてならないのが、1964年(昭和39年)10月に行われた東京オリンピックである。戸田ボートコースが漕艇競技の会場となり、生徒も聖火リレーの隊員として、また、国旗掲揚の隊員として協力し、さまざまな国々の人たちと交わり、広く世界への視野を養うことができたといえる。

鉄筋新校舎の写真

この時代、1956年(昭和31年)の『経済白書』が「もはや戦後ではない」というほど、すでに戦後の混乱期を脱し、家電製品(洗濯機、冷蔵庫、テレビ)等へ目を向けるなど安定した生活を獲得するとともに、後半は、所得倍増計画による高度経済成長の時代へと入っていく。この間、美笹地区は、農業地帯の様相を呈しつつ、地区中央を大宮バイパスが貫通することによって自動車交通の利便性が飛躍的に向上し、都市化の波が押し寄せてきていた。美笹中学校も、1966年(昭和41年)10月の市制施行に伴い、「市立中学校」として新たな時代を迎える。

第3章 大きく学校が変化した時代(1967年から1976年)

鉄筋校舎と体育館の写真

1967年度(昭和42年度)から1976年度(昭和51年度)は、50周年史の中のまさに中間点であり、創立期の伝統を受け継ぎつつも、現在に向かって大きく学校が変化した時代ともいえる。1965年(昭和40年)代前半、国では教科書が無償となり、義務教育無償の原則に向かって大きく動き出した。また、市では給食センターの完成に伴い、これまで小学校のみで実施されていた完全給食が中学校にも導入されることとな った。地域では、新大宮バイパスが完成。交通事故が多発することも懸念されたので、特に自転車通学が制限されることとなった。校内では、クラスの呼び方をABC方式から数字(1,2,3…)方式に変更し、また運動部では女子バレー部、体操部の活躍が目を引いた。

1965年(昭和40年)代後半から1975年(昭和50年)代当初にかけては、まだ多くに緑に囲まれた校舎の屋上から、富士山や秩父連山の雄姿が何の障害物もなくはっきりと見ることができ、その中で1972年度(昭和47年度)入学生から女子の制服がセーラー服から現行のスタイルに変更され、また、体育着もトレパンにランニングのスタイルから現在の生徒が着用しているような校章入りのジャージに切り替えられることとなった。

学校全景(空撮)の写真

1965年(昭和40年)代も末になると、その後、50年代全国的に吹き荒れた「校内暴力」の前兆とも思われる現象が、本校でも例外なく現われた。これに対して、先生方や生徒会、保護者の皆さんが互いに力を合せて、落ち着いた学校作りに取り組んだのである。その成果もあって、学校は次第に落ち着きを取り戻し、幸いにも全国的に学校荒廃が叫ばれていた50年代において、その心配は本校においては皆無の状態となった。

第4章 笹目中を分離、そして発展充実(1977年から1986年)

校内緑化作業の写真

西部土地区画整理事業の進行、新大宮バイパスの開通と、地域環境が大きく変わっていく中で、美笹地区の人口も増加の一途を辿り、美中の生徒数も1978年(昭和53年)に872人、21学級に達した。そして翌1979年(昭和54年)4月には、笹目中を分離し、現在の学区(新大宮バイパスの西側と美女木1、2丁目)となった。

1965年(昭和40年)代から積極的に取り組んできた校内緑化計画は、40年代後半から50年代初期にかけて本格化し、52年には校舎平行の通路両側花壇、校舎と体育館の間に『美中池』を配した中庭を設置し、1979年(昭和54年)には、外周フェンスを赤い実のつくピラカンサにした。

多くの場合、費用をかけないという方針から、生徒の労力奉仕とPTAの協力を仰いだ。こうして花と緑あふれる、まさに美しい美中は、全国花いっぱい運動から優良賞をもらうこととなった。この手入れには部活動の園芸 部が中心的役割を果たした。

花と緑あふれる校内の写真

また、学力向上と生徒指導に大きな力点がおかれ、教職員が一丸となって取り組んだ。そのため校内研修が数多く開かれ、生徒の学力向上に努めた結果、高校進学面でも好成績を上げた。特に、英語教育ではLanguage Laboratory教室(言語実習室)を利用した英語教育について熱心に研究し、1980年度・1981年度(昭和55年度・56年度)には県中学校英語教育研究会と市教育委員会委嘱の研究発表、1982年度・1983年度(昭和57年度・58年度)には文部省委嘱の研究発表もあり、この間、県英語弁論暗礁大会での優勝、そしてテレビ埼玉の放送で取り上げられる等のまさに美笹中の研究発表花盛りであった。

一方、部活動も活発に行われ、書く運動部とも朝早くから放課後は夕方遅くまで、先生方が先頭に立って生徒たちを指導し、ともに汗を流す姿が見られた。その結果、多くの輝かしい成果を勝ち得た。この時期の美中は、まさに内容充実の時代といえる。落ち着いた雰囲気と全体のまとまりのよさから、美中を称して、『戸田の学習院』という人すらあった。

第5章 重層体育館完成、さらに発展(1987年から1996年)

重層体育館の写真

1987年(昭和62年)から1996年(平成8年)までの10年間における大きな社会的変化といえば、昭和から平成への移り変わりである。美笹中学校を取り巻く社会環境も変化している。1992年(平成4年)11月に、東京外郭環状道路のうち三郷ジャンクションから和光インターチェンジ間が開通したのをはじめ、翌5年10月には、首都高速道路5号池袋線の戸田南から美女木間が開通、美女木ジャンクションで外環道路と合流するなど、従来からある新大宮バイパスとともに戸田市の交通の拠点となりつつある。

美笹中学校においては、1965年(昭和40年)に建築されてから、入学式、文化祭、クラブ活動には欠かせない体育館が、1990年(平成2年)11月の文化祭開催中に折からの台風により屋根が飛ばされるという事故があった。老朽化が主な原因と考えられるが、これを契機に体育館の改築が検討され、ちょうどその頃、各中学校に武道館設置が決まったこともあって、1992年(平成4年)6月に工事に着工、翌1993年(平成5年)8月には、武道館を併設した重層体育館が完成した。武道館は『誠美館』と名づけられた。美笹中学校の新たな歴史を生徒たちとともに刻んでいる。

バイパスの写真

また、生徒たちを取り巻く環境も変化を遂げている。1992年(平成4年)9月から、月1回の学校週五日制が、大きな関心を持って始まった。「何を知っているかより何ができるか」「学歴偏重から個性重視」への移行とともに子どもたちの豊かな人間性や個性の伸長が叫ばれるようになった。1995年度(平成7年度)からは、学校週五日制が月2回実施されるようになった。

そして、2002年には完全学校週五日制が実施されようとしています。地域と学校、家庭が共に手を取り合って子どもたちの学校外の生活を見守っていかねばなりません。美笹中学校はそれができる学校です。美中を卒業して各界で活躍されている先輩諸氏の皆さん是非、「美中、がんばれ!」と応援してください。

第6章 21世紀に向けた新しい教育の基礎作り(1997年から2006年)

熱気あふれる運動会の写真

50周年、それはひとつの通過点に過ぎない。

美笹中の歴史はこれからも営々と積み重ねられる。地域の皆さんのご支援ご協力により。1997年度(平成9年度)、校舎内の廊下が全面的に改修され、翌1998年度(平成10年度)には全教室の天井張替え工事が完了した。

1999年度(平成11年度)には、内壁塗装塗り替えが完了して室内の明るさは一変した。「環境が人を作る」といいますが、美笹の子どもたちは明るく純朴である。環境が人を作るというが環境は人が作るもの。

「時を守り、場を清め、礼を尽くす」人間は充実感や存在感を感じたとき素直になれる。ノーチャイムによる生活は定着し授業はきちんと定刻に始まっている。清掃時間は「師弟同行」で教師もほうきや雑巾片手に子どもたちと取り組んでいる。一度学校へ来てみていただきたい。美笹中は校内が実にきれいである。

2000年度(平成12年度)、「情報教育」、総合的な学習では「特色ある学校づくり」の研究委嘱を受け、インターネットや体験活動に取り組んでいる。21世紀に向けた新しい教育の試みが着々と進んでいる。

大勢が共存する学校は、時に喜びであり、時に苦悩もあろう。共存は、強制と自由、規律と寛大の、苦悩の歴史を編みつづける。

充実した学校生活の写真

故に一人の子どものために、他の子どもたちの多くが学校生活に危機を感じたり、厳しい嫌悪感を抱いたりするような事態にしてはならない。当然のことながら、極めて個性的な子どもには、個別の配慮がなされるようにする。

教師は、改めて徳と知識の双方を有すべきである。そのために、教師自身が絶えず勉強を続けることが望まれる。生徒と保護者は、その結果として、教師に人格的権威を自然に感じるようになるのが理想である。21世紀を目前にして新たな想いで美笹中を見つめなおしていきたい。

美笹中学校 沿革
1979年(昭和54年) 笹目中を分離し、現在の学区となった
1993年(平成5年) 重層体育館(誠美館)完成
1997年(平成9年) Ll室をパソコン室へ切替
1999年(平成11年) パソコン室へ新機種パソコン20台導入
2000年(平成12年) 校舎夜間照明施設新設
2004年(平成16年) 職員室にノートパソコンの導入
2006年(平成18年) 校舎耐震補強工事完了(西側)
2007年(平成19年) 校舎耐震補強工事完了(東側)
2008年(平成20年) 野球用バックネット取替え工事完了
2011年(平成23年) パソコン室へ新機種パソコン40台導入
2013年(平成25年) 可動式防球ネット設置
2014年(平成26年) タブレットPc16台導入
2015年(平成27年) 1階トイレ改修
2016年(平成28年) 70周年記念式典・校舎大規模改修工事