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美女木八幡神社

掲載日:2018年6月14日更新

美女木八幡神社の画像1 美女木八幡神社の画像2 

美女木八幡神社の画像3 美女木八幡神社の画像4

美女木八幡神社の画像5

社伝創建は鎌倉時代 文治5年(800有余年前)源頼朝が奥州下向の時、当所に寄宿し、その夜に神のお告げにより鎌倉の 八幡宮を観請(カンジョウ)したとされています。

その後、戦乱により衰廃しましたが、元亀元年(1570年)に伊賀宝信入道により再建されたと伝えられています。南北朝時代には、新八幡宮と言われていた事が浦和市三室の「氷川神社」の大般若経(至徳2 年1385年)に記載されています。

この本殿の擬宝珠の処に「笹目八幡宮御神前元禄6年発酉蔵11月吉祥日領主法印栄陳」と記されたものもあり、本殿は少なくとも300年以前のものと判明します。

昔の八幡神社全景

昔の八幡神社全景の画像

神社入り口には昔、長い参道が続き、そこで毎年8月15日に流鏑馬(ヤブサメ)が行われていたそうです。今は区画整理がさ れ、昔のように参道から神社の本殿を見ることは出来ません。昭和初期には、獅子舞が奉納され、獅子舞いが行われていたそうです が、現在は舞い手がなく奉納されていません。現在は、毎年9月15日に祭礼が行われています。

銅鐘

銅鐘の画像

社宝の銅鐘は、国の重要美術品、県の指定文化財となっています。残念ながら銘文がなく、製作年代は不明ですが、南北朝時代のものではないかと言われています。現在は、戸田市立博物館に安置されています。

銅鐘のいい伝え

鎌倉時代のこと。神社の南にある深い池で不思議な音がするので、村人は何事かと集まりました。音はますます大きくなるばかりで、村人は心配で夜も眠れないほどでした。そんなある日、お坊さんが通りかかり、村人が訳を話すと、「それはお気の毒に」と熱心に拝んでくれました。するとだんだん音も静かになり、そのうちに水面に大きな釣り鐘が浮かび上がりました。人々がその鐘をついてみると「八幡へ行こうー八幡へ行こうー」と聞こえました。人々は早速これを美女木八幡社へ奉納しました。これは竜宮より献上された鐘だと思いました。その後、不思議なことにこの鐘をつくと、決まって大水が出て人々が困りました。それからは「水鐘」といって恐れられ、誰もつかなくなりました。この鐘は今でも決してついてはならないといわれています。